憲法択一 人権 基本的人権の原理 人権の享有主体性 キャサリーン 指紋 岐阜 など


・判例によれば、国際慣習法上、外国人に対する入国の許否は、国家の自由裁量によると考えられており、外国人に入国の事由は憲法上保障されないので、特別の条約が存在しない限り、国家は外国人の入国を許可する義務を負わない!

+22条
1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2項 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

+判例(S32.6.19)
弁護人三浦徹の上告趣意第一点について。
所論は、憲法二二条は当然に外国人が日本国に入国する自由をも保障しているものと解すべきであるから、外国人登録令三条、一二条は、憲法二二条に違反する旨主張する。
よつて案ずるに、憲法二二条一項には、何人も公共の福祉に反しない限り居住・移転の自由を有する旨規定し、同条二項には、何人も外国に移住する自由を侵されない旨の規定を設けていることに徴すれば、憲法二二条の右の規定の保障するところは、居住・移転及び外国移住の自由のみに関するものであつて、それ以外に及ばず、しかもその居住・移転とは、外国移住と区別して規定されているところから見れば、日本国内におけるものを指す趣旨であることも明らかである。そしてこれらの憲法上の自由を享ける者は法文上日本国民に局限されていないのであるから、外国人であつても日本国に在つてその主権に服している者に限り及ぶものであることも、また論をまたない。されば、憲法二二条は外国人の日本国に入国することについてはなにら規定していないものというべきであつて、このことは、国際慣習法上、外国人の入国の許否は当該国家の自由裁量により決定し得るものであつて、特別の条約が存しない限り、国家は外国人の入国を許可する義務を負わないものであることと、その考えを同じくするものと解し得られる。従つて、所論の外国人登録令の規定の違憲を主張する論旨は、理由がないものといわなければならない。

同第二点について。
論旨は量刑不当の主張であつて、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。
記録を調べても、本件につき刑訴四一一条を適用すべきものとは認められない。
よつて刑訴四〇八条により主文のとおり判決する。
この裁判は、裁判官斎藤悠輔の補足意見並びに裁判官真野毅、同小林俊三、同入江俊郎、同垂水克己の意見がある外、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官斎藤悠輔の上告趣意第一点についての補足意見は、次のとおりである。
所論は、原審で主張がなく、従つて、原判決はそれにつき何等の判断をも示していない。従つて、所論は、原判決に刑訴四〇五条一号後段にいわゆる憲法の解釈に誤があることを理由とするものということはできない。また、原判決は、事後審として単なる法令違反、量刑不当を理由とする控訴を棄却しただけで、所論外国人登録令の規定を適用したわけではないから、原判決に刑訴四〇五条一号前段にいわゆる憲法の違反があることを理由とする場合に当るものともいえない。されば、所論は、上告適法の理由として採用することはできない。

+意見
裁判官真野毅の上告趣意第一点に対する意見は次のとおりである。憲法二二条一項は、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転……の自由を有する」と定めている。この規定の保障を受ける者は、日本国民に限定されているわけではなく、「何人も」本条の保障を受けるのである。すなわち外国人もまた本条の保障をうける。ここまでの考え方は多数意見と同様である。
そこで多数意見は、本条の保障は日本国内における居住・移転のみに限るとしているが、わたくしはその居住・移転という中には入国も当然含まれている趣旨であると解するを相当だと考える。旅行その他で海外に滞在していた日本国民が帰つて来て入国する場合及び海外にあつて日本の国籍を取得した日本国民が初めて入国する場合において、入国の自由は、本条によつて憲法上当然保障されているとするが相当であり、またそうしなければならぬ。けだし、国内だけの居住・移転の自由については憲法上の保障があるが、入国の自由については憲法上の保障がないとすることは、著しく物の均衡を害し条理に反することとなるからである。
右のように日本国民の入国について本条の保障があると解する以上、外国人の入国についても同様に本条の保障があるとしなければならぬことは、当初に述べたとおりである。かように憲法は、近代的な国際交通自由の原則の立場を採つたことを示している(世界人権宣言一三条参照)。しかし、同時に憲法は、公共の福祉を保つ見地から前記自由に適当の制限を立法上加えうることを定めている。そして所論の外国人登録令の規定は、公共の福祉を保つために設けられたものであつて、合憲性を有するものと解すべきである。それ故、違憲の論旨は採ることをえない。

+意見
裁判官小林俊三、同入江俊郎の意見は次のとおりである。
われわれは、上告趣意第一点に対する判断について多数意見と結論を同じくするものであるが、その理由の基くところを異にするので、ここに意見を述べる。
いずれの国の憲法も、その国の根本法規としての基盤となる基本的な理想又は原理というものを何らかの言葉で示しているのを常とする。かかる理想又は原理は、その国の憲法の条規を解釈するに当りまず立つべき前提であつて、これを離れることは許されないものと考えなければならない。わが国の憲法は、その成立過程についてとかくの論議はあるにしても、すでに根本法として存立する以上、その中に盛られた基本的な理想や原理は最大の尊重を払わなければならない。そこで通常わが憲法の基本的原理といわれる国民主権、恒久平和、基本的人権尊重の三つの理想に通じて根底に横わるものは、人類普遍の原理ということであり、またかくして国境を越え世界を通じて恒久平和を達成せんとする念願でもある。これらのことは憲法の前文によつて明らかであり、特に自ら「いづれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」ことを宣言していることからも確認することができる。この趣旨から考えてみると、わが憲法は、外国人の権利義務についても、正常の国際関係に立つかぎり、わが国民としての地位と相容れないものを除くのほか、できるかぎりこれをひとしくしようとする原則に立つていると見なければならない。従つて憲法の条規中「何人も」とある場合は、常にこの趣旨を念頭に置いて解することを要するのである。
ところで多数意見は、本件について憲法二二条の保障するところを解して、居住、移転及び外国移住の自由のみに関するものであつて、それ以外には及ばず、そして居住、移転とは日本国内におけるものを指すといい、また同条は、外国人の日本国に入国することについてはなにら規定していないのであつて、このことは、国際慣習法上外国人の入国の許否は、その国家の自由裁量の事項であつて、国家は外国人の入国を許可する義務を負わないという考え方と趣旨を同じくすると判示している。しかしながら、まず居住、移転の保障を日本国内にのみ限るという解釈は、右同条がこれら二つを外国移住と区別して規定していることを主たる理由としているが、わが国民で海外に旅行し又は居住していた者が帰国することは、すなわち入国であつて、この自由が右同条の保障に含まれないと解することは、国民が一たん海外に出るときは帰国については憲法の保障を欠くこととなり著しき背理たるを免れない。このことは海外にあつて日本の国籍を取得した者が、わが国に入国する場合においても同様である。このような結論は多数意見もおそらく是認しないところであろう。しかし多数意見の判文が前記のように解されるのは、後段において外国人の入国の保障を否認する立場をとつたために、文理のみによつて「入国」そのものをことさらに無視した結果生じた表現であろう。本来入国ということは、条理の上からいつても、外国移住についてはもちろん、外国との関連において考えるかぎり、居住、移転についても、通常その観念の半面に存するものであつて、これを除外すべき特段の理由は認められない。特に世界各国民の交通が著しく頻繁容易となり、地球が狭少となつたといわれる現状において、「入国」という辞句のないことをもつて除外の理由とするのは、ことさらに条理を無視するのそしりを免れないであろう。このように前記法条が、当然「入国」を含むと解すべきものである以上、本件の問題はただ「何人も」の解釈によつて定まるものといわなければならない。そこで冒頭にくりかえし強調したわが憲法の基本的原理は、ここにおいても当然前提として考慮せらるべきものであつて、その結論はおのずから明らかであろう。すなわち本条の「何人も」のうちには外国人を含むと解してもわが国民の地位と相容れないものではないこというまでもなく、従つて外国人も入国についてわが国民と同じ保障を受ける地位に立つという原則をまず是認しなければならないのである。多数意見のように旧来の「国際慣習法上」という前提によりたやすく外国人の入国を憲法の保障外に置くことは、新しき理想を盛つたわが憲法の基本的原理を全く無視するものといわなければなるまい。しかしこれまでは原理であつて、かかる基本的考え方に立つた上、なお国家対立の現状にかんがみ、その後に生ずる第二次の問題はおのずから別である。すなわち各国民が各自国家を形成し、窮極の理想は別として第一段においては、それぞれまず自国民の福祉を保持することを先とする現実において、それぞれの憲法が公共の福祉を保持するため外国人の入国について特定の制限をすることは認めらるべきであつて、わが憲法ももとよりこの趣旨を除外するものではない。本件外国人登録令の規定は、右の趣旨に基き定められたものと認められるのであつて、単に外国人の入国を制限しているということだけで、その違憲をいうのは当らず、違憲の論旨の採用できないこと多数意見と結論を同じくする。ただわれわれの意見としては、多数意見が、無条件に外国人の入国は、本来わが国の自由に制限し得る事項であるという原則に立つ点において見解を異にするのであつて、現行憲法の解釈としては、いわゆる「国際慣習法上」なる前提に無批判に立脚することを、一たん脱却すべきものであると要請したいのである。

+意見
裁判官垂水克己の上告趣意第一点についての意見は次のとおりである。
憲法二二条は、出入国、居住、移転及び職業選択の自由については、日本国民に対しては公共の福祉に反しない限り広くこれを認め、また、外国人に対しても事柄の性質上当然日本国民と異る厳格な制約をつけうべきことを前提としつつ、しかも、公共の福祉に反しない限り僅かでもその自由を認める主義をとつたものと解せられる。この理由から、同条は在外日本国民には広い入国の自由を、また、国内日本国民並びに左留外国人には広い外国旅行、移住等出国の自由(及びわが国内に住所を有する外国人の外国旅行からの帰還の自由)を認めるものであつて、無制限にこれを拒否することはなく、また一般外国人の入国も全般的に永く禁止し鎖国するようなことはせず、ただ公共の福祉上暫定的にのみ禁止することができるとするもの、すなわち、外国人にも入国の自由を、どちらかといえば、認めるに傾いた主義をとつたもの、と考えられる。所論外国人登録令は、一定の台湾人、朝鮮人を同令の適用については当分の間これを外国人とみなす(一一条)とともに、外国人は、当分の間、本邦に入ることができないと定め(三条一項)その違反を処罰する(一二条)が、これらの規定は、わが史上空前の国内秩序の混乱、秩序維持力の弱体化、わが国と諸外国との国際関係の不安定、その他従前わが内地と深い関係のあつた外国地域に関係ある外国人等のわが国との取引往復の一般的要望その他占領下、終戦後の特殊事情に基き、相当程度国の平和秩序が回復するまでの間のために公共の福祉の必要から設けられた規定であると観られる。この理由から、所論の外国人登録令の規定は憲法二二条に違反せず、論旨は理由がないとせらるべきである。

・判例によれば、22条2項は、何人も、外国に移住する自由を侵されないと規定しており、ここにいう外国に移住する自由は、その権利の性質上外国人には保障しないという理由はない!!!

+判例(S32.12.25)

主文
第一審判決中被告人Aに関する有罪部分及び原判決中同被告人に関する部分を破棄する。
被告人Aを懲役六月に処する。
同被告人に対し第一審における未決勾留日数三〇日及び原審における未決勾留日数二八日を右本刑に算入する。
被告人Bの本件上告を棄却する。
当審における訴訟費用は被告人Bの負担とする。
理由

被告人両名の弁護人長崎祐三の上告趣意(一)について。
論旨は原判決が被告人両名の本邦より朝鮮に出国しようとした所為を出入国管理令二五条二項、七一条によつて処罰したのは、憲法が与えた外国移住権を制限するものであるから、同法二二条二項に違反すると主張する。
しかし、憲法二二条二項は「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」と規定しており、ここにいう外国移住の自由は、その権利の性質上外国人に限つて保障しないという理由はない次に、出入国管理令二五条一項は、本邦外の地域におもむく意図をもつて出国しようとする外国人は、その者が出国する出入国港において、入国審査官から旅券に出国の証印を受けなければならないと定め、同二項において、前項の外国人は、旅券に証印を受けなければ出国してはならないと規定している。右は、出国それ自体を法律上制限するものではなく、単に、出国の手続に関する措置を定めたものであり、事実上かゝる手続的措置のために外国移住の自由が制限される結果を招来するような場合があるにしても、同令一条に規定する本邦に入国し、又は本邦から出国するすべての人の出入国の公正な管理を行うという目的を達成する公共の福祉のため設けられたものであつて、合憲性を有するものと解すべきである。よつて、所論は理由がない。

同(二)について。
憲法三七条一項にいわゆる「公平な裁判所の裁判」とは、偏頗や不公平のおそれのない組織と構成をもつ裁判所による裁判を意味するものであつて、所論のような場合をいうものでないことは、当裁判所の判例とするところであるから(昭和二二年(れ)四八号同二三年五月二六日大法廷判決、集二巻五号五一一頁)、論旨は採用できない。
被告人Bの弁護人松井佐の上告趣意は、事実誤認、訴訟法違反の主張を出でないものであつて、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。
よつて被告人Bに関する本件上告は刑訴四一四条、三九六条によりこれを棄却し、当審における訴訟費用は同一八一条一項を適用して同被告人に負担させるものとする。

被告人Aに対する福岡高等検察庁検事長宮本増蔵の上告趣意について。
未決勾留は公訴の目的を達するため、やむを得ず、被告人又は被疑者を拘禁する強制処分であつて、刑の執行ではないが、自由を奪う点から自由刑に近いから、人権保護の衡平の観念から刑法二一条は、未決勾留の日数の全部又は一部を本刑に算入することを認めているのである。しかし、刑の執行と勾留状の執行が競合している場合には、勾留の有無にかゝわらず被告人又は被疑者は刑の執行によつて拘禁を受けているのであつて、勾留は観念上存在するが、事実上は刑の執行による拘禁のみが存在するに過ぎない。すなわち、勾留によつて自由を拘束するのではないから人権保護の立場からいつても、かかる未決勾留の期間を本刑に通算する必要はなく、却つて、これを通算すれば一個の拘禁を以つて、二個の自由刑の執行を同時に行つたと同様となつて不合理な結果となり、被告人に不当な利益を与えることとなる刑法二一条はかゝる場合の未決勾留を本刑に通算することを認める趣旨とは解せられない
記録によると被告人Aは昭和二八年一月一三日関税法違反及び出入国管理令違反の現行犯として逮捕され、同月一八日長崎地方裁判所武生水支部裁判官が右と同一罪名の被疑事件について発した勾留状により壱岐地区警察署に勾留せられ、同年二月四日公判請求を受け、原審の昭和二八年一〇月二九日付保釈許可決定により同日釈放されるまで引続き勾留されていたこと並びに、同被告人は昭和二七年二月一九日長崎地方裁判所厳原支部において外国人登録令違反及び関税法違反の罪により懲役一〇月(昭和二七年政令一一八号減刑令により懲役七月一五日に減軽)に処せられ、右裁判は同年九月六日控訴が棄却されたことにより確定したため、同被告人は昭和二八年二月二日検察官の執行指揮により同日から右刑の執行を受け同年九月一六日右刑の執行を受け終つたものであることを認めることができる。しかるに、原判決及び第一審判決が同被告人に対し同被告人が刑の執行を受けている期間の未決勾留日数を本刑に算入する旨の言渡をなしたのは、前示の法理に照し違法であり、論旨援用の判例にも反するから、刑訴四一〇条一項により同被告人に対する原判決及び第一審判決中、同被告人に有罪を言渡した部分を破棄し、刑訴四一三条但書により被告事件について更に判決をなすべく、第一審判決の確定した事実(判示第三の事実)に法令を適用すると、被告人Aの判示所為は出入国管理令二五条二項、七一条に該当するところ、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期範囲内で同被告人を懲役六月に処し、第一審判決において本刑に算入した未決勾留日数三〇日中昭和二八年一月一八日から同年二月一日までの一五日を除くその余は被告人の前示刑の執行を受けている期間であるから、これを本刑に算入することは違法であるけれども、本件第一審判決に対しては、検察官の控訴なく、被告人のみの控訴であつてこれを不利益に変更することは許されないので、刑法二一条に則り、第一審における前記三〇日及び被告人が前記別件の刑の執行を受け終つた昭和二八年九月一六日の翌日から原判決言渡の前日たる同年一〇月一四日までの原審における未決勾留日数二八日を右本刑に算入すべきものとする。よつて主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官小谷勝重、同垂水克己、同河村大助、同下飯坂潤夫の左記意見があるほか裁判官の一致した意見である。

+意見
裁判官小谷勝重の弁護人長崎祐三の上告趣意(一)に対する意見は次のとおりである。
一 憲法二二条二項は、直接外国人の国外移住の自由を保障した規定とは解せられない。言いかえれば、本項の自由の保障はわが国民のみを対象とした規定と考える。
しかし、わが国内に居住する外国人がその本国への帰国のための出国は勿論、その他の外国へ移住することの自由が保障せらるべきであることは、右憲法同条同項の精神に照して明らかであるから、結局憲法同条同項の規定は外国人を対象とした規定ではないが、憲法の精神は外国人に対しても国民に対すると同様の保障を与えておるものと解すべきであると考える。
二 次に出入国管理令二五条二項は「……外国人は、旅券に出国の証印を受けなければ出国してはならない。」と規定するところであつて、外国人の出国それ自体を制限することを目的とした規定ではなく、単に出国の手続に関する規定であり、そして外国人の出入国に関する管理上必要の程度において当然な合理性を持つものである。けだし憲法が如何に国外移住の自由を保障すればとて、外国人のわが国よりの出国が自由放任の状態であつてはならないことは自明のことであり、右令二五条二項は(令七一条の制裁規定と共に)単なるこれが出国に関する手続措置の規定であることは前示規定自体に徴して明確である。すなわち令同条同項は多数意見のいうが如き「公共の福祉」のためにその憲法上の保障を制限する趣旨の規定とは解すべきではないと考える。
要するに、憲法の規定する「公共の福祉」による人権の制限は、事物当然の合理性を持つ規定を指すものではないと考えると同時に、憲法の規定する「公共の福祉」はこれを容易に拡張し若しくは利用して、憲法が保障する人権を制限するの具に供してはならないものと考える。
裁判官垂水克己の検事長上告趣意に関する意見は次のとおりである。
記録によると、被告人Aは本件での勾留状(及び勾留更新決定)により判示の年一月一三日から一〇月二九日(保釈釈放日)まで引き続き勾留されていたが、判示別件の確定判決により懲役一〇月(判示減刑令により懲役七月一五日に減軽)に処せられたため、右勾留期間の中間である二月二日から九月一六日までの間、土手町拘置支所でこの懲役刑の執行を受け終つたことになつている。これによると同被告人は二月二日から九月一六日までの間は同じ監獄内で刑事被告人としての処遇と懲役囚としての処遇とを重複して受けたこととされている。かような場合には、本人は、勾留被告人として、立会人なくして弁護人と接見する等(刑訴三九条)重要な防禦権を害されてはならず、また被告事件についての罪証を隠滅するような言動を許さるべきでないとともに、懲役囚として作業し教誨を受ける等の義務もなおざりにされてはならない筈である(これをなおざりにするときは懲役刑に処した判決の本旨に従う執行があつたといえない場合があり得るであろう)。本件被告人が右期間中これらの点について如何なる処遇を受けていたかは記録上判らない。(恐らく、大正一三年二月行刑局長通牒甲一八五号旧刑訴法実施についての注意事項六、七、八によつたであろう。被告人は勾留状により右土手町拘置支所の未決拘禁区において他の刑事被告人と分界拘禁され作業その他につき受刑者として処遇されたのであろう。)
しかし、いずれにしても、次のことがいえる。
(一)被告人が未決囚兼懲役囚として重複処遇を受けた期間中、未決拘禁区にあつて他の未決囚と分界拘禁され、衣食臥具の官給と教誨を受け、そして、弁護人との接見、信書発受について未決囚としての規制のみを受ける以外は懲役囚としての作業に服したのであるならば、これを適当な重複処遇というを妨げまい。けれども、この場合でも本人は一個の拘禁によつて懲役の義務と未決勾留の義務との双方を弁済するのであり、換言すれば、本件での勾留日数の一部は、実質上、別件での懲役刑に算入されたと同様の結果になる訳だから、この勾留日数を更に本件の本刑に算入することは失当に過ぎ許さるべきでない。(ちなみに、若し被告人が本件全事実につき無罪判決を受けたと仮定してもかような勾留日数に応ずる刑事補償金を交付すべきではなかろう。)
(二)また、若し右重複拘禁期間中、作業は殆んどせず、主として未決囚としての処遇を受けていたとすれば、それは懲役刑の不完全履行であつて、これを懲役刑を完了したものとしたことは不適当であつたというべきである。かような場合にも右期間を本件の本刑に算入することは全体的に考察すれば衡平でなく違法というべきであろう。
(三)反対に、右重複拘禁中主として懲役囚としての処遇を受けたとすれば、未決勾留は名義上だけのものに近いから、この場合にも右の期間を本件の本刑に算入することは、実質上、他事件の確定判決による懲役刑受刑日数を本件の本刑に算入すると同様の結果となり、本人に不当利益を与えるものといわねばならない。要するに、以上いずれの場合にせよ、本人は本件での勾留義務と他事件の確定判決による懲役服役義務とを一個の拘禁で果たしたようなものとして扱われたのであるから、本件勾留日数を更に本件本刑に算入することは刑法二一条の解釈上許さるべきでない。本判決が「これを通算すれば一個の拘禁をもつて二個の自由刑の執行を同時に行つたと同様となつて不合理な結果となり被告人に不当利益を与えることとなる」としたことは是認されるべきである。

+意見
裁判官河村大助、同下飯坂潤夫の弁護人長崎祐三の上告趣意(一)に対する意見は次のとおりである。
私共は憲法二二条二項は外国人には適用がないものと解する。憲法第三章の所謂権利宣言は、その表題の示すとおり国民の権利自由を保障するのが原則であつて、外国人に対しても凡ての権利自由を日本国民と同様に保障しようとするものではない。国民はすべて法の下に平等であることが保障されているが、その権利自由の性質いかんによつては法律で外国人を合理的な範囲で差別することも許されなければならないと考えられる。
ところで憲法二二条二項は外国移住及び国籍離脱の自由を保障しているのであるが、同条にいう「何人も」とは日本国民を意味し外国人を含まないものと解すべきである。かつては国民の兵役義務や国防関係等から国籍離脱の自由は相当の制限を受け、外国移住についても特別の保障はなかつたのであるが、近世に至つてかゝる自由を制限する必要もなくなつたのと国際的交通の発達に伴い、国民の海外移住とそれに伴う外国への帰化が盛んに行われるようになつて来た状勢に鑑み、また日本人を在来の鎖国的傾向から解放せんとする意図の下に、憲法は海外移住と国籍離脱の自由を保障することになつたものと解すべきである、即ち、同条は国籍自由の原則を認め国民は自国を自由に離れることを妨げられないことを保障されたものであるから、同条の外国移住は国籍離脱の自由と共に日本国民に対する自由の保障であることは、同条の成立に至るまでの沿革に徴しても明らである、従つて同条二項は外国人に適用がないものと解するを正当とする。なお同条一項の居住移転の自由には外国人の入国を含まないことは既に判例の存するところである(昭和三二年六月一九日大法廷判決)。然るに外国人の出国については同条二項に包含されると解するが如き、両者を別異に取扱うべき実質上の理由も存在しないものというべきである。
或は外国人の出入国について、その自由が憲法上保障されていないことになると国家はこれを自由に禁止制限することができ、憲法の理想とする平和主義国際主義に反するのではないかとの論を生ずるかも知れない。しかし、後に公布された平和条約前文にも「世界人権宣言の目的を実現するため努力」する旨が宣言され、その人権宣言では一三条及び一五条において国籍自由の原則や出国の自由が認められているのであるから、国家は出入国管理に関する法令を制定するに当つても、右条約及び人権宣言を尊重して合理的にして公正な管理規制が行わるべきであることは憲法九八条二項に照し明らかである。従つて憲法上の保障がないからと謂つて、外国人に対し国政上不当な取扱いをすることは考えられないのである。
要するに憲法二二条二項の「何人も」の中には外国人を含まないものと解すべきであり、被告人両名は外国人で同条項の外国移住の自由を保障された者でないから、論旨違憲の主張はその前提を欠き、理由がない。
裁判官田中耕太郎は差支につき評議に関与しない。
検察官 安平政吉出席

・判例によれば、国際人権B規約(自由権規約)第12条第4項の「自国に戻る」には、「定住国に戻る」ことの保障を含まないから、日本に定住する外国人の場合、憲法上外国へ一時旅行する自由は保障されない!!!
+判例(H4.11.16)森川キャサリーン事件
理由
上告代理人野本俊輔、同村上愛三の上告理由第一点について
我が国に在留する外国人は、憲法上、外国へ一時旅行する自由を保障されているものでないことは、当裁判所大法廷判決(最高裁昭和二九年(あ)第三五九四号同三二年六月一九日判決・刑集一一巻六号一六六三頁、昭和五〇年(行ツ)第一二〇号同五三年一〇月四日判決・民集三二巻七号一二二三頁)の趣旨に徴して明らかである。以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違憲はない。論旨は採用することができない。
同第二点及び第三点について
原審の適法に確定した事実関係の下において、所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

++解説など補足しておく。

・13条により、個人の私生活上の自由として、何人もみだりに指紋の押なつを強制されない事由を有し、この自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶ!!
+判例(H7.12.15)指紋押捺拒否事件
理由
一 弁護人松下宜且、同原田紀敏、同熊野勝之の各上告趣意及び被告人本人の上告趣意のうち、憲法一三条違反をいう点について
所論は、我が国に在留する外国人について指紋押なつ制度を定めた外国人登録法(昭和五七年法律第七五号による改正前のもの。以下特に記載がない限り同じ)一四条一項、一八条一項八号は、みだりに指紋を採られない権利を保障する憲法一三条に違反すると主張する。
本件は、アメリカ合衆国国籍を有し現にハワイに在住する被告人が、昭和五六年一一月九日、当時来日し居住していた神戸市灘区において新規の外国人登録の申請をした際、外国人登録原票、登録証明書及び指紋原紙二葉に指紋の押なつをしなかったため、外国人登録法の右条項に該当するとして起訴された事案である。
指紋は、指先の紋様であり、それ自体では個人の表生活や人格、思想、信条、良心等個人の内心に関する情報となるものではないが、性質上万人不同性、終生不変性をもつので、採取された指紋の利用方法次第では個人の私生活あるいはプライバシーが侵害される危険性がある。このような意味で、指紋の押なつ制度は、国民の私生活上の自由と密接な関連をもつものと考えられる。 !!!
憲法一三条は、国民の私生活上の自由が国家権力の行使に対して保護されるべきことを規定していると解されるので、個人の私生活上の自由の一つとして、何人もみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有するものというべきであり、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、同条の趣旨に反して許されず、また、右の自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶと解される(最高裁昭和四〇年(あ)第一一八七号同四四年一二月二四日大法廷判決・刑集二三巻一二号一六二五頁、最高裁昭和五〇年(行ッ)第一二〇号同五三年一〇月四日大法廷判決・民集三二巻七号一二二三頁参照)。
しかしながら、右の自由も、国家権力の行使に対して無制限に保護されるものではなく、公共の福祉のため必要がある場合には相当の制限を受けることは、憲法一三条に定められているところである。
そこで、外国人登録法が定める在留外国人についての指紋押なつ制度についてみると、同制度は、昭和二七年に外国人登録法(同年法律第一二五号)が立法された際に、同法一条の「本邦に在留する外国人の登録を実施することによって外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もって在留外国人の公正な管理に資する」という目的を達成するため、戸籍制度のない外国人の人物特定につき最も確実な制度として制定されたもので、その立法目的には十分な合理性があり、かつ、必要性も肯定できるものである。また、その具体的な制度内容については、立法後累次の改正があり、立法当初二年ごとの切替え時に必要とされていた押なつ義務が、その後三年ごと、五年ごとと緩和され、昭和六二年法律第一〇二号によって原則として最初の一回のみとされ、また、昭和三三年律第三号によって在留期間一年未満の者の押なつ義務が免除されたほか、平成四年法律第六六号によって永住者(出入国管理及び難民認定法別表第二上欄の永住者の在留資格をもつ者)及び特別永住者(日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法に定める特号永住者)にっき押なつ制度が廃止されるなど社会の状況変化に応じた改正が行われているが、本件当時の制度内容は、押なつ義務が三年に一度で、押なつ対象指紋も一指のみであり、加えて、その強制も罰則による間接強制にとどまるものであって、精神的、肉体的に過度の苦痛を伴うものとまではいえず、方法としても、一般的に許容される限度を超えない相当なものであったと認められる。
右のような指紋押なつ制度を定めた外国人登録法一四条一項、一八条一項八号が憲法一三条に違反するものでないことは当裁判所の判例(前記最高裁昭和四四年一二月二四日大法廷判決、最高裁昭和二九年(あ)第二七七七号同三一年一二月二六日大法廷判決・刑集一〇巻一二号一七六九頁)の趣旨に徴し明らかであり、所論は理由がない。

二 弁護人松下宜且及び被告人本人の各上告趣意のうち、憲法一四条違反をいう点について
所論は、指紋押なつ制度を定めた外国人登録法の前記各条項は外国人を日本人と同一の取扱いをしない点で憲法一四条に違反すると主張する。しかしながら、在留外国人を対象とする指紋押なつ制度は、前記一のような目的、必要性、相当性が認められ、戸籍制度のない外国人については、日本人とは社会的事実関係上の差異があって、その取扱いの差異には合理的根拠があるので、外国人登録法の同条項が憲法一四条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和二六年(あ)第三九一一号同三〇年一二月一四日大法廷判決・刑集九巻一三号二七五六頁、最高裁昭和三七年(あ)第九二七号同三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五七九頁)の趣旨に徴し明らかであり、所論は理由がない。

三 弁護人原田紀敏、同熊野勝之の各上告趣意及び被告人本人の上告趣意のうち、憲法一九条違反をいう点について所論は、指紋押なつ制度を定めた外国人登録法の前記各条項は外国人の思想、良心の自由を害するもので憲法一九条に違反すると主張するが、指紋は指先の紋様でありそれ自体では思想、良心等個人の内心に関する情報となるものではないし、同制度の目的は在留外国人の公正な管理に資するため正確な人物特定をはかることにあるのであって、同制度が所論のいうような外国人の思想、良心の自由を害するものとは認められないから、所論は前提を欠く。

四 弁護人松下宜且、同原田紀敏、同熊野勝之の各上告趣意及び被告人本人の上告趣意のうち、その余の点は、違憲をいう点を含め、実質は単なる法令違反の主張であって、いずれも適法な上告理由に当たらない。
五 弁護人菅充行の上告趣意は、違憲をいう点を含め、実質は単なる法令違反の主張であって、適法な上告理由に当たらない。
よって、刑訴法四〇八条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

++解説
《解  説》
本件は、在留外国人の指紋押なつ拒否事件の刑事上告審判決である。
一 本判決の要点
本判決は、指紋押なつ制度の合憲性に関して初めて最高裁の判断を示したものである。その要点は、次のようなものである。
①指紋押なつ制度について
「指紋は、指先の紋様であり、それ自体では個人の私生活や人格、思想、信条、良心等個人の内心に関する情報となるものではないが、性質上万人不同性、終生不変性をもつので、採取された指紋の利用方法次第では個人の私生活あるいはプライバシーが侵害される危険性がある。このような意味で、指紋の押なつ制度は、国民の私生活上の自由と密接な関連をもつものと考えられる。
②みだりに指紋の押なつを強制されない自由と憲法一三条の関係について
憲法一三条は、国民の私生活上の自由が国家権力の行使に対して保護されるべきことを規定していると解されるので、個人の私生活上の自由の一つとして、何人もみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有するものというべきであり、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、同条の趣旨に反して許されず、また、右の自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶと解される。」
③外国人登録法の指紋押なつ制度の合憲性について
「右の自由も、国家権力の行使に対して無制限に保護されるものではなく、公共の福祉のため必要がある場合には相当の制限を受けることは、憲法一三条に定められているところである。
同制度は、昭和二七年に外国人登録法が立法された際に、同法一条の「本邦に在留する外国人の登録を実施することによって外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もって在留外国人の公正な管理に資する」という目的を達成するため、戸籍制度のない外国人の人物特定につき最も確実な制度として制定されたもので、その立法目的には十分な合理性があり、かつ、必要性も肯定できるものである。また、その具体的な制度内容については、立法後累次の改正があり、社会の状況変化に応じた改正が行われているが、本件当時の制度内容は、押なつ義務が三年に一度で、押なつ対象指紋も一指のみであり、加えて、その強制も罰則による間接強制にとどまるものであって、精神的、肉体的に過度の苦痛を伴うものとまではいえず、方法としても、一般的に許容される限度を超えない相当なものであったと認められる。」
本判決は、以上のような判示をして、被告人について適用された外国人登録法(昭和五七年法律第七五号による改正前のもの)一四条一項、一八条一項八号について、憲法一三条に違反するものでないと判断した。なお、この判断は、最大判昭44・12・24刑集二三巻一二号一六二五頁、最大判昭31・12・26刑集一〇巻一二号七六九頁の趣旨に徴したものである。

二 事案の概要
被告人は、日系の米国人宣教師であるが(上告審判決時にはハワイに在住)、本件は、被告人が、昭和五六年一一月九日、牧師活動をするため当時来日し居住していた神戸市灘区において新規の外国人登録の申請をした際、外国人登録原票、登録証明書及び指紋原紙二葉に指紋の押なつをしなかったため、外国人登録法(昭和五七年法律第七五号による改正前のもの)一四条一項、一八条一項八号に該当するとして起訴された事案である。
在留外国人について指紋押なつ制度を定めた外国人登録法は、本件公訴提起後、数度の改正がなされ、昭和六二年の改正ではそれまで登録の切替えごとに課されていた押なつ義務が原則として最初の一回のみとされ、また、平成四年の改正では永住者及び特別永住者(いわゆる在日韓国・朝鮮人が含まれる)につき押なつ制度が廃止されており、さらに、昭和天皇崩御に伴う大赦で大半の同法違反事件が免訴となったこともあり、指紋押なつ拒否による刑事被告事件は、本件のような事例のみとなっていた。

三 争点
被告人、弁護人は、一審以来、指紋押なつ制度の合憲性を争い、右制度を定めた外国人登録法の条項につき、憲法一三条、一四条、一九条、三一条違反等を主張したが、特に、指紋押なつ制度がみだりに指紋を採られない権利を保障する憲法一三条に違反するという主張を主要な争点としてきた。
その論拠の要点は、次のようなものである。
①「みだりに指紋を採られない権利」は、憲法一三条の保障するプライバシーの権利に含まれ、個人の高度の精神的自由に属するから、これに対する制約原理は、いわゆる「厳格な基準」によらなければならない。
②指紋押なつ制度の立法目的は、在日外国人、特に在日韓国・朝鮮人に対する行動を監視しようとする治安目的、あるいは同化支配の目的にある。
③指紋押なつ制度は、外国人登録制度の正確性担保という目的には役に立っておらず、その必要性・合理性は認められない。
④指紋押なつ制度は、在日韓国・朝鮮人に対する同化政策の下で、アイデンティティ形成障害、精神的障害などの人権侵害をもたらしており、この影響は受忍限度を超えている。
一審(神戸地判昭61・4・24)及び原審(大阪高判平2・6・19)は、いずれも指紋押なつ制度の合憲性を肯定した。原審の判断については、本誌七四二号五五頁参照。

四 判例・学説
1 指紋押なつ制度の合憲性を直接判断した最高裁判例はこれまでなかったが、高裁、地裁の裁判例は、次のように相当数あり、いずれの事例でも結論として合憲性が肯定されている。
(刑事関係)
①横浜地判昭59・6・14本誌五三〇号二八二頁、刑月一六巻五:六号四四六頁
②東京地判昭59・8・29本誌五三四号九八頁、刑月一六巻七:八号六四五頁
③福岡地小倉支判昭60・8・23本誌五六五号一九九頁
④岡山地判昭61・2・25本誌五九六号八七頁
⑤神戸地判昭61・4・24本件一審、本誌六二九号二一二頁
⑥東京高判昭61・8・25判時一二〇八号六六頁
⑦福岡高判昭61・12・26本誌六二五号二五九頁
⑧大阪地判昭62・2・23本誌六四一号二二六頁
⑨東京地判昭63・1・29本誌六九一号二五〇頁
⑩名古屋高判昭63・3・16本誌六七四号二三八頁
⑪大阪高判昭63・11・29ジュリ九五一号カード
⑫大阪高判平2・6・19本原審、本誌七四二号五五頁
(民事関係)
⑬東京地判平1・4・28本誌六九四号一八七頁
⑭福岡地判平1・9・29本誌七一八号八一頁
⑮東京地判平2・3・13本誌七二三号九三頁
⑯横浜地川崎支判平2・11・29本誌七四四号二二〇頁
⑰東京高判平4・4・6本誌八〇七号二一二頁
⑱神戸地判平4・12・14本誌八一五号一五〇頁
⑲福岡高判平6・5・13本誌八五五号一五〇頁
⑳大阪高判平6・10・28判時一五一三号七一頁
2 ところで、関連する最高裁の判例として「みだりに容ぼう等を撮影されない自由と憲法一三条」についての判断を示した最大判昭44・12・24(いわゆる京都府学連事件)があり、前記の下級審の裁判例は、大半が右大法廷判例を引用し又はその趣旨に沿って、「みだりに指紋の押なつを強制されない自由」を、右大法廷判例の認めた「みだりに容ぼう等を撮影されない自由」と同様に、憲法一三条によって保護される個人の私生活上の自由の一つと解して、合憲性の判断をしている。その判断基準については、基本的に合理性の基準(制度目的の正当性、制度の必要性、規制の相当性等の審査)によっている(なお、裁量権の範囲か逸脱かの基準によっている一例がある)。
3 学説上、本テーマを取り上げた論文等では、「みだりに指紋の押なつを強制されない自由」の性格について、この自由をプライバシーの権利とみるか、あるいは自己に関する情報をコントロールする権利等とみるかについては議論があるが、右の自由が憲法一三条によって保障されるとする点に、異論は見当たらない。
ただ、その合憲性の判断基準については、前記各裁判例が合理性の基準によったものとみられるのに対して、より厳格な審査基準によるべきとする説が多い(芦部「憲法学Ⅱ人権総論」三八七頁、萩野・ジュリ八二六号二三頁、内野・法時五七巻五号二一頁、浦部・ジュリ九〇八号四五頁、江橋・法教五〇号九四頁、古川・ジュリ八三八号八頁、笹川・ジュリ八六六号一四一頁、横田・法研五六巻二号一頁等)。これは、「みだりに指紋の押なつを強制されない自由」がプライバシーの権利に近い性質のものと理解することによるものと思われる。なお、合理性の基準をとる説もある(橋本・「座談会、外国人登録制度と指紋押捺問題」ジュリ八二六号一八頁)。
ところで、結論として外国人登録法の指紋押なつ制度を違憲と断じる説は、少ない(前記浦部、横田説が違憲とする)。

五 本判決の意義
本判決には二つの意義があると考えられる。
一つは、「何人も個人の私生活上の自由の一つとしてみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有し、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、憲法一三条の趣旨に反し許されない。」旨を判示して、「みだりに指紋の押なつを強制されない自由」が憲法一三条によって保護されることを明確にしたことである。
次に、このような考え方に立って、外国人登録法の指紋押なつ制度規定について、その立法目的には十分な合理性があり、かつ必要性も肯定でき、本件当時の制度内容も精神的、肉体的に過度の苦痛を伴うものとまではいえず、方法としても一般的に許容される限度を超えない相当なものであったとして、憲法一三条に違反しないと判断したことである。
本判決は、判断方法を含め、本問題につきこれまで高裁、地裁の裁判例の大勢を占めていた判断を、基本的に是認するものといえよう。
外国人登録法は、累次の改正がなされた結果、現在では、指紋押なつ義務は永住者及び特別永住者については除外されており、この義務が課されるのは在留期間が一年を超える外国人につき原則として最初の一回のみとなっており、刑事罰則が適用されるのはごくまれになっている。
しかし、在留外国人の指紋押なつ制度を定めた外国人登録法一四条一項、一八条一項八号は、現在でも存置されており、その意味で本判決は、今後もなお、重要な意義をもつものと考えられる。

・憲法13条は、個人の私生活上の自由のひとつとして、指紋押捺を強制されない自由を保障しているが、公共の福祉のために必要がある場合には相当の制限を受ける。=権利の性質上外国人に対して制約があるわけではない!!!公共の福祉としての制約!!

・未成年者も日本国民である以上、当然に人権の享有主体である。ただ、憲法上、未成年者の人権を明文で制限している規定はある!
+15条
1項 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3項 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4項 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

・憲法第3章の人権規定は、未成年者にも当然適用される。(←第3章の表題にある「国民」に未成年が含まれることから)もっとも、人権の性質によっては、社会の構成員として成熟した人間を主として対象としており、それに至らないその保証の範囲や程度が異なることになる!
+15条
1項 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3項 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4項 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

+27条
1項 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
2項 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3項 児童は、これを酷使してはならない

・本人の利益のために本人の権利を制限するというパターナリスティックな制約は、判断能力が不十分な未成年に対しては認められる。成年者に対しても認められる場合がある。
+精神保健及び精神障害者福祉に関する法律
(処遇)
第36条
1項 精神科病院の管理者は、入院中の者につき、その医療又は保護に欠くことのできない限度において、その行動について必要な制限を行うことができる
2項 精神科病院の管理者は、前項の規定にかかわらず、信書の発受の制限、都道府県その他の行政機関の職員との面会の制限その他の行動の制限であつて、厚生労働大臣があらかじめ社会保障審議会の意見を聴いて定める行動の制限については、これを行うことができない。
3項 第1項の規定による行動の制限のうち、厚生労働大臣があらかじめ社会保障審議会の意見を聴いて定める患者の隔離その他の行動の制限は、指定医が必要と認める場合でなければ行うことができない。

・地方公共団体の制定する青少年保護育成条例によって有害図書の流通を制約することは、未成年者に対する関係において、憲法第21条第1項に違反しない!
+21条
1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2項 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

+判例(H1.9.19)岐阜県青少年育成条例事件
理由
一 弁護人青山學、同井口浩治の上告趣意のうち、憲法二一条一項違反をいう点は、岐阜県青少年保護育成条例(以下「本条例」という。)六条二項、六条の六第一項本文、二一条五号の規定による有害図書の自動販売機への収納禁止の規制が憲法二一条一項に違反しないことは、当裁判所の各大法廷判例(昭和二八年間第一七一三号同三二年三月一三日判決・刑集一一巻三号九九七頁、昭和三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁、昭和五七年(あ)第六二一号同六〇年一〇月二三日判決・刑集三九巻六号四一三頁)の趣旨に徴し明らかであるから、所論は理由がない。同上告趣意のうち、憲法二一条二項前段違反をいう点は、本条例による有害図書の指定が同項前段の検閲に当たらないことは、当裁判所の各大法廷判例(昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日判決・民集三八巻一二号一三〇八頁、昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日判決・民集四〇巻四号八七二頁)の趣旨に徴し明らかであるから、所論は理由がない。同上告趣意のうち、憲法一四条違反をいう点が理由のないことは、前記昭和六〇年一〇月二三日大法廷判決の趣旨に徴し明らかである。同上告趣意のうち、規定の不明確性を理由に憲法二一条一項、三一条違反をいう点は、本条例の有害図書の定義が所論のように不明確であるということはできないから前提を欠き、その余の点は、すべて単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由に当たらない。

二 所論にかんがみ、若干説明する。
1 本条例において、知事は、図書の内容が、著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長するため、青少年の健全な育成を阻害するおそれがあると認めるときは、当該図書を有害図書として指定するものとされ(六条一項)、右の指定をしようとするときには、緊急を要する場合を除き、岐阜県青少年保護育成審議会の意見を聴かなければならないとされている(九条)。ただ、有害図書のうち、特に卑わいな姿態若しくは性行為を被写体とした写真又はこれらの写真を掲載する紙面が編集紙面の過半を占めると認められる刊行物については、知事は、右六条一項の指定に代えて、当該写真の内容を、あらかじめ、規則で定めるところにより、指定することができるとされている(六条二項)。これを受けて、岐阜県青少年保護育成条例施行規則二条においては、右の写真の内容について、「一 全裸、半裸又はこれに近い状態での卑わいな姿態、二性交又はこれに類する性行為」と定められ、さらに昭和五四年七月一日岐阜県告示第五三九号により、その具体的内容についてより詳細な指定がされている。このように、本条例六条二項の指定の場合には、個々の図書について同審議会の意見を聴く必要はなく、当該写真が前記告示による指定内容に該当することにより、有害図書として規制されることになる。以上右六条一項又は二項により指定された有害図書については、その販売又は貸付けを業とする者がこれを青少年に販売し、配付し、又は貸し付けること及び自動販売機業者が自動販売機に収納することを禁止され(本条例六条の二第二項、六条の六第一項)、いずれの違反行為についても罰則が定められている(本条例二一条二号、五号)。

2 本条例の定めるような有害図書が一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであつて、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になつているといつてよい。さらに、自動販売機による有害図書の販売は、売手と対面しないため心理的に購入が容易であること、昼夜を問わず購入ができること、収納された有害図書が街頭にさらされているため購入意欲を刺激し易いことなどの点において、書店等における販売よりもその弊害が一段と大きいといわざるをえない。しかも、自動販売機業者において、前記審議会の意見聴取を経て有害図書としての指定がされるまでの間に当該図書の販売を済ませることが可能であり、このような脱法的行為に有効に対処するためには、本条例六条二項による指定方式も必要性があり、かつ、合理的であるというべきである。そうすると、有害図書の自動販売機への収納の禁止は、青少年に対する関係において、憲法二一条一項に違反しないことはもとより、成人に対する関係においても、有害図書の流通を幾分制約することにはなるものの、青少年の健全な育成を阻害する有害環境を浄化するための規制に伴う必要やむをえない制約であるから、憲法二一条一項に違反するものではない
よつて、刑訴法四〇八条により、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官伊藤正己の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

+補足意見
裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。
岐阜県青少年保護育成条例(以下「本件条例」という。)による有害図書の規制が憲法に違反するものではないことは、法廷意見の判示するとおりである。いわゆる有害図書を青少年の手に入らないようにする条例は、かなり多くの地方公共団体において制定されているところであるが、本件において有害図書に該当するとされた各雑誌を含めて、表現の自由の保障を受けるに値しないと考えられる価値のない又は価値の極めて乏しい出版物がもつぱら営利的な目的追求のために刊行されており、青少年の保護育成という名分のもとで規制が一般に受けいれられやすい状況がみられるに至つている。そして、本件条例のような法的規制に対しては、表現の送り手であるマス・メデイア自身も、社会における常識的な意見も、これに反対しない現象もあらわれている。しかし、この規制は、憲法の保障する表現の自由にかかわるものであつて、所論には検討に値する点が少なくない。以下に、法廷意見を補足して私の考えるところを述べておきたいと思う。

一 本件条例と憲法二一条
(一) 本件条例によれば、六条一項により有害図書として指定を受けた図書、同条二項により指定を受けた内容を有する図書は、 青少年に供覧、販売、貸付等をしてはならないとされており(六条の二)、これは明らかに青少年の知る自由を制限するものである。当裁判所は、国民の知る自由の保障が憲法二一条一項の規定の趣旨・目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであるとしている(最高裁昭和六三年(オ)第四三六号平成元年三月八日大法廷判決・民集四三巻二号八九頁参照)。そして、青少年もまた憲法上知る自由を享有していることはいうまでもない
青少年の享有する知る自由を考える場合に、一方では、青少年はその人格の形成期であるだけに偏りのない知識や情報に広く接することによつて精神的成長をとげることができるところから、その知る自由の保障の必要性は高いのであり、そのために青少年を保護する親権者その他の者の配慮のみでなく、青少年向けの図書利用施設の整備などのような政策的考慮が望まれるのであるが、他方において、その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であつて、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがつて青少年のもつ知る自由は一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。もとよりこの保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保護に当たる者の任務であるが、それが十分に機能しない場合も少なくないから、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならないと思われる。本件条例もその一つの方法と考えられる。
このようにして、ある表現が受け手として青少年にむけられる場合には、成人に対する表現の規制の場合のように、その制約の憲法適合性について厳格な基準が適用されないものと解するのが相当である。そうであるとすれば、一般に優越する地位をもつ表現の自由を制約する法令について違憲かどうかを判断する基準とされる、その表現につき明白かつ現在の危険が存在しない限り制約を許されないとか、より制限的でない他の選びうる手段の存在するときは制約は違憲となるなどの原則はそのまま適用されないし、表現に対する事前の規制は原則として許されないとか、規制を受ける表現の範囲が明確でなければならないという違憲判断の基準についても成人の場合とは異なり、多少とも緩和した形で適用されると考えられる。以上のような観点にたつて、以下に論点を分けて考察してみよう。

(二) 青少年保護のための有害図書の規制について、それを支持するための立法事実として、それが青少年非行を誘発するおそれがあるとか青少年の精神的成熟を害するおそれのあることがあげられるが、そのような事実について科学的証明がされていないといわれることが多い。たしかに青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえないかもしれないしかし青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもつて足りると解してよいと思われる。もつとも青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要性が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといつて、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。
西ドイツ基本法五条二項の規定は、表現の自由、知る権利について、少年保護のための法律によつて制限されることを明文で認めており、いわゆる「法律の留保」を承認していると解される。日本国憲法のもとでは、これと同日に論ずることはできないから、法令をもつてする青少年保護のための表現の自由、知る自由の制約を直ちに合憲的な規制として承認することはできないが、現代における社会の共通の認識からみて、青少年保護のために有害図書に接する青少年の自由を制限することは、右にみた相当の蓋然性の要件をみたすものといつてよいであろう。問題は、本件条例の採用する手段方法が憲法上許される必要な限度をこえるかどうかである。これについて以下の点が問題となろう。

(三) すでにみたように本件条例による有害図書の規制は、表現の自由、知る自由を制限するものであるが、これが基本的に是認されるのは青少年の保護のための規制であるという特殊性に基づくといえる。もし成人を含めて知る自由を本件条例のような態様方法によつて制限するとすれば、憲法上の厳格な判断基準が適用される結果違憲とされることを免れないと思われる。そして、たとえ青少年の知る自由を制限することを目的とするものであつても、その規制の実質的な効果が成人の知る自由を全く封殺するような場合には、同じような判断を受けざるをえないであろう。
しかしながら、青少年の知る自由を制限する規制がかりに成人の知る自由を制約することがあつても、青少年の保護の目的からみて必要とされる規制に伴つて当然に附随的に生ずる効果であつて、成人にはこの規制を受ける図書等を入手する方法が認められている場合には、その限度での成人の知る自由の制約もやむをえないものと考えられる。本件条例は書店における販売のみでなく自動販売機(以下「自販機」という。)による販売を規制し、本件条例六条二項によつて有害図書として指定されたものは自販機への収納を禁止されるのであるから、成人が自販機によつてこれらの図書を簡易に入手する便宜を奪われることになり、成人の知る自由に対するかなりきびしい制限であるということができるが、他の方法でこれらの図書に接する機会が全く閉ざされているとの立証はないし、成人に対しては、特定の態様による販売が事実上抑止されるにとどまるものであるから、有害図書とされるものが一般に価値がないか又は極めて乏しいことをあわせ考えるとき、成人の知る自由の制約とされることを理由に本件条例を違憲とするのは相当ではない。

(四) 本件条例による規制が憲法二一条二項前段にいう「検閲」に当たるとすれば、その憲法上の禁止は絶対的なものであるから、当然に違憲ということになるが、それが「検閲」に当たらないことは、法廷意見の説示するとおりである。その引用する最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決(民集三八巻一二号一三〇八頁)によれば、憲法にいう「検閲」とは、「行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきである」ところ、本件条例の規制は、六条一項による個別的指定であつても、また同条二項による規則の定めるところによる指定(以下これを「包括指定」という。)であつても、すでに発表された図書を対象とするものであり、かりに指定をうけても、青少年はともかく、成人はこれを入手する途が開かれているのであるから、右のように定義された「検閲」に当たるということはできない
もつとも憲法二一条二項前段の「検閲」の絶対的禁止の趣旨は、同条一項の表現の自由の保障の解釈に及ぼされるべきものであり、たとえ発表された後であつても、受け手に入手されるに先立つてその途を封ずる効果をもつ規制は、事前の抑制としてとらえられ、絶対的に禁止されるものではないとしても、その規制は厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許されるものといわなければならない(最高裁昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日大法廷判決・民集四〇巻四号八七二頁参照)。本件条例による規制は、個別的指定であると包括指定であるとをとわず、指定された後は、受け手の入手する途をかなり制限するものであり、事前抑制的な性格をもつている。しかし、それが受け手の知る自由を全面的に閉ざすものではなく、指定をうけた有害図書であつても販売の方法は残されていること、のちにみるように指定の判断基準が明確にされていること、規制の目的が青少年の保護にあることを考慮にいれるならば、その事前抑制的性格にもかかわらず、なお合憲のための要件をみたしているものと解される。

(五) すでにみたように、本件条例は、有害図書の規制方式として包括指定方式をも定めている。この方式は、岐阜県青少年保護育成審議会(以下「審議会」という。)の審議を経て個別的に有害図書を指定することなく、条例とそのもとでの規則、告示により有害図書の基準を定め、これに該当するものを包括的に有害図書として規制を行うものである。一般に公正な機関の指定の手続を経ることにより、有害図書に当たるかどうかの判断を慎重にし妥当なものとするよう担保することが、有害図書の規制の許容されるための必要な要件とまではいえないが、それを合憲のものとする有力な一つの根拠とはいえる
包括指定方式は、この手続を欠くものである点で問題となりえよう
このような包括指定のやり方は、個別的に図書を審査することなく、概括的に有害図書として規制の網をかぶせるものであるから、検閲の一面をそなえていることは否定できないところである。しかし、この方式は、法廷意見の説示からもみられるように、自販機による販売を通じて青少年が容易に有害図書を入手できることから生ずる弊害を防止するための対応策として考えられたものであるが、青少年保護のための有害図書の規制を是認する以上は、自販機による有害図書の購入は、書店などでの購入と異なつて心理的抑制が少なく、弊害が大きいこと、審議会の調査審議を経たうえでの個別的指定の方法によつては青少年が自販機を通じて入手することを防ぐことができないこと(例えばいわゆる「一夜本」のやり方がそれを示している。)からみて、包括指定による規制の必要性は高いといわなければならない。もとより必要度が高いことから直ちに表現の自由にとつてきびしい規制を合理的なものとすることはできないし、表現の自由に内在する制限として当然に許容されると速断することはできないけれども、他に選びうる手段をもつては有害図書を青少年が入手することを有効に抑止することができないのであるから、これをやむをえないものとして認めるほかはないであろう。私としては、つぎにみるように包括指定の基準が明確なものとされており、その指定の範囲が必要最少限度に抑えられている限り、成人の知る自由が封殺されていないことを前提にすれば、これを違憲と断定しえないものと考える

二 基準の明確性
およそ法的規制を行う場合に規制される対象が何かを判断する基準が明確であることを求められるが、とくに刑事罰を科するときは、きびしい明確性が必要とされる表現の自由の規制の場合も、不明確な基準であれば、規制範囲が漠然とするためいわゆる萎縮的効果を広く及ぼし、不当に表現行為を抑止することになるために、きびしい基準をみたす明確性が憲法上要求される。本件条例に定める有害図書規制は、表現の自由とかかわりをもつものであるのみでなく、刑罰を伴う規制でもあるし、とくに包括指定の場合は、そこで有害図書とされるものが個別的に明らかにされないままに、その販売や自販機への収納は、直ちに罰則の適用をうけるのであるから、罪刑法定主義の要請も働き、いつそうその判断基準が明確でなければならないと解される。もつとも、すでにふれたように青少年保護を目的とした、青少年を受け手とする場合に限つての規制であることから みて、一般の表現の自由の規制と同じに考えることは適当でなく、明確性の要求についても、通常の表現の自由の制約に比して多少ゆるめられることも指摘しておくべきであろう。
右の観点にたつて本件条例の有害図書指定の基準の明確性について検討する。論旨は、当裁判所の判例を引用しつつ、合理的判断を加えても本件条例の基準は不明確にすぎ、憲法二一条一項、三一条に違反すると主張する。本件条例六条一項では指定の要件は、「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長する」とされ、それのみでは、・必ずしも明確性をもつとはいえない面がある。とくに残忍性の助長という点はあいまいなところがかなり残る。また「猥褻」については当裁判所の多くの判例によつてその内容の明確化がはかられているが(そこでも問題のあることについて最高裁昭和五四年(あ)第一三五八号同五八年三月八日第三小法廷判決・刑集三七巻二号一五頁における私の補足意見参照。)、本件条例にいう「著しく性的感情を刺激する」図書とは猥褻図書よりも広いと考えられ、規制の及ぶ範囲も広範にわたるだけに漠然としている嫌いを免れない。
しかし、これらについては、岐阜県青少年対策本部次長通達(昭和五二年二月二五日青少第三五六号)により審査基準がかなり具体的に定められているのであつて、不明確とはいえまい。そして本件で問題とされるのは本件条例六条二項であるが、ここでは指定有害図書は「特に卑わいな姿態若しくは性行為を被写体とした写真又はこれらの写真を掲載する紙面が編集紙面の過半を占めると認められる刊行物」と定義されていて、一項の場合に比して具体化がされているとともに、右の写真の内容については、法廷意見のあげる施行規則二条さらに告示(昭和五四年七月一日岐阜県告示第五三九号)を通じて、いつそう明確にされていることが認められる。このように条例そのものでなく、下位の法規範による具体化、明確化をどう評価するかは一つの問題ではあろう。しかし、本件条例は、その下位の諸規範とあいまつて、具体的な基準を定め、表現の自由の保障にみあうだけの明確性をそなえ、それによつて、本件条例に一つの限定解釈ともいえるものが示されているのであつて、青少年の保護という社会的利益を考えあわせるとき基準の不明確性を理由に法令としてのそれが違憲であると判断することはできないと思われる。

三 本件条例と憲法一四条
条例による有害図書の規制が地方公共団体の間にあつて極めて区々に分かれていることは、所論のとおりである。たしかに本件条例は、最もきびしい規制を行う例に属するものであり、他の地方公共団体において、有害図書規制について、単に業界の自主規制に委ねるものや罰則のおかれていないものもみられるし、みなし規制を含め、包括的な指定の方式を有するところは一〇余県で必ずしも多くはなく、自販機への収納禁止を定めながら罰則のないところもある。このようにみると、青少年の保護のための有害図書の規制は地方公共団体によつて相当に差異があるといつてよいであろう。
しかし、このように相当区々であることは認められるとしても、それをもつて憲法一四条に違反するものではないことは、法廷意見の説示するとおりである。私は、青少年条例の定める青少年に対する淫行禁止規定については、その規制が各地方公共団体の条例の間で余りに差異が大きいことに着目し、それをもつて直ちに違憲となるものではないが、このような不合理な地域差のあるところから「淫行」の意味を厳格に解釈することを通じて著しく不合理な差異をできる限り解消する方向を考えるべきものとした(法廷意見のあげる昭和六〇年一〇月二三日大法廷判決における私の反対意見参照。)。このような考え方が有害図書規制の面においても妥当しないとはいえないが、私見によれば、青少年に対する性行為の規制は、それ自体地域的特色をもたず、この点での青少年の保護に関する社会通念にほとんど地域差は認められないのに反して、有害図書の規制については、国全体に共通する面よりも、むしろ地域社会の状況、住民の意識、そこでの出版活動の全国的な影響力など多くの事情を勘案した上での政策的判断に委ねられるところが大きく、淫行禁止規定に比して、むしろ地域差のあることが許容される範囲が広いと考えられる。この観点にたつときには、本件条例が他の地方公共団体の条例よりもきびしい規制を加えるものであるとしても、なお地域の事情の差異に基づくものとして是認できるものと思われる。
このことと関連して、基本的人権とくに表現の自由のような優越的地位を占める人権の制約は必要最小限度にとどまるべきであるから、目的を達するために、人権を制限することの少ない他の選択できる手段があるときはこの方法を採るべきであるという基準が問題とされるかもしれない。すなわち、この基準によれば、他の地方公共団体がゆるやかな手段、例えば業界の自主規制によつて有害図書の規制を行つているにかかわらず、本件条例のようなきびしい規制を行うことは違憲になると主張される可能性がある。しかし、わが国において有害図書が業界のいわゆるアウトサイダーによつて出版されているという現状をみるとき、果して自主規制のようなゆるやかな手段が適切に機能するかどうかは明らかではないし、すでにみたように、青少年保護の目的での規制は、表現の受け手が青少年である場合に、その知る自由を制約するものであつても、通常の場合と同じ基準が適用されると考える必要がないと解されることからみて、本件条例のようなきびしい規制が政策として妥当かどうかはともかくとして、他に選びうるゆるやかな手段があるという理由で、それを違憲と判断することは相当でないと思われる。
以上詳しく説示したように、本件条例を憲法に違反するものと判断することはできず、これを違憲と主張する所論は、傾聴に値するところがないわけではないが、いずれも採用することができないというほかはない。